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時々、「ものみの塔」という機関誌を持って、名も知らぬおばあさんが我が家を訪ねて来ます。多くの家庭で門前払いの扱いを受けているそうで、その反動なのか、我が家では神の愛と一緒に愚痴まで置いて帰られます。
彼女は、神の愛で、この世は天国になり、人々は不老不死を得て、争うこともなく平和な時代が来ると説明します。先のことは知らないので、私は否定も肯定もしませんが、少なくともそうならないで欲しいとは願っています。人が地球を自分の住みやすい環境に造り替えるということは、自然を破壊するということですし、不老不死を得るということは、人間以外の生物が自由に地球で暮らすことを許さないという事に他ならないからです。地球が人間で溢れてしまうと、それだけで戦争が起こりそうですが、争いのない世の中になるための第一番目の条件が「自分の利益を求めない」ことですので、地球が天国になるということは、人間が物欲や食欲や性欲などを持たなくても生きていける世の中になるということでしょう。
人間が、人間らしく生きるために、少なくとも「幸せ」を感じて生きていくためには、煩悩が必要です。空気、食物、衣類、家屋、家族、友人、恋人、富、名声などなどの私欲です。人間は、自分の生存と幸せを確保して初めて他者の生存と幸せに配慮ができる動物なのです。お互いの利益が相反し続ける限り、地球上から争いがなくなるわけがありません。
では、先のおばあさんが伝えようとした神の愛とはなんでしょうか。キリスト教は愛の宗教だといわれていますが、神の愛は、実はきびしい愛なのです。「他人の利益を自分の利益に優先させて生きなさい」と教えているからです。親が子に向ける愛情が典型的な例ですが、昨今は親の愛すら危うい状況です。
神が私たちに教えようとしているのは、自己中では束の間の幸せしか得られないこと、そして人間は自己中から抜け出す能力がないこと、神にはその能力を与える準備があることです。誤解を恐れず断言しますが、神を信じるということは、救われるということではありません。他人のために自分の人生を使う約束をするということです。自分を救いたいのであれば、自分の運命に一喜一憂しない自分をつくることです。
繰り返しますが、神を信じるということは、免罪符を得ることではなく、自分を自己中から他己中に変える挑戦なのです。ですから、この世は天国になる場所ではなく、修行に明け暮れる神の学校なのです。
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