>普通の上等 2006.05.04


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沖縄の地酒「泡盛」のコマーシャルで、「普通の上等」というフレーズが使われています。私には、「普通が上等」という意味に聞こえますが、それが普通の人の解釈と合致するかについての自信は、まったくありません。「普通」という言葉に対して、私は人一倍敏感に反応します。それは、唯一私の心が憧れと劣等感でいっぱいになる瞬間でもあります。

母は、私が幼少の頃から「お前は普通の人と変わっているんだから」と言うのが口癖でした。したがって、私は「普通の人」ではないんだと自然に納得できてしまいました。外でこんなことは言うな、あんなことはするなと教え込まれてきた結果、私は、外(=親しくない人の前)では、喋らない、動かないことがベストであると考えるようになり、実践してきました。

やがて、自分を近寄りがたい存在だと思う人がいることを知りましたが、普通じゃないから仕方ないと気にもとめませんでした。しかし、ある日自分が美化されていることを知って愕然としました。そして、外見に対する自己評価と他人の評価の落差に驚かされました。例えば、子供からよく「女?男?」と言われる自分の風貌が嫌でしたが、見る人が違えば美男子となるのですからお笑いです。風呂嫌いで歯も磨かなかった男としては、光栄を通り越して困惑するしかありませんでした。

誤解を解こうと釈明すると、奥ゆかしいという評価をいただく始末だったので、美しい誤解はいつか笑いネタに使えると考えを改め、事態の収拾を図ることはしませんでした。しかし、仕事ができるという美しい誤解は、前例踏襲主義の公務員の世界にあって、前任者のいない仕事ばかりが回ってくるようになると、さすがに笑えなくなりました。喘息、頚椎ヘルニアで体を壊してしまったからです。過労死一番候補と脅かされたこともあり、普通の公務員にならなければ死亡退職しか残されていないと考え、同僚らにすまないと思いながら異動させてもらったところ、私の後任が二人も来たので失笑しました。

異動先で前任のいない仕事が二年目から始まり、やったこともない電算システムの構築をさせられました。ところが、開発を委託した業者が、担当者の退職を理由にシステムの面倒を見てくれなくなったため、独学でプログラムを勉強し、システムの保守をやる羽目になりました。マクロアッセンブラという言語は、業界でも専門家が皆無に近い状態でしたので難渋させられました。その後も給与問題を担当して三役や組合と衝突したり、軍事基地移設がらみで上層部や国県とやりあったりと、主権者不在としか思えない行政にたびたび牙をむいてきました(=他人の評価です。私としては普通に仕事をしただけなのですが)。

現在は、行政に愛想が尽きたので逃げ出すことしか考えていませんが、後輩たちが膨大なつけを払わされる時代の到来で、時代に動じない普通でない私が必要とされているらしく、円満退職ができそうにありません。でも、10年も前から到来がわかっていたはずなのに、いまさら動じるほうが普通じゃないと思う私がやっぱり普通じゃないのでしょうか。

諸行無常は当たり前と認識しているならば、それを真理とうそぶくのならば、なぜ自分は変化しないぞと平気で言えるのでしょうか?自分の利益に固執して共同社会に生きる社会人といえますか?変わることが普通だと認識できなければ、上等をつかみ損ねてしまうだけですよ。既得権益のたぐいもやがて上等からヤナーに、普通に朽ち果てていくのですから。

ここまで引っ張っても、「普通の上等」って「普通が上等」っていう意味、にはならないかやっぱり。

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